人を活用すること、そして「行動→思考」サイクルについて
こんにちは。
今回は前回の続きです。
人を活用すること、
「行動→思考」サイクルについて、
そして最終的にどうやって自分のことを見つめなおせるようになったか、
のお話をしていこうと思います。
字面だけ見ると内容目白押しのメジロマックイーンですね。
ウマ娘プリティーダービーって感じです。
実際には無職ダーティー人生ですが。
今回の記事は、以前の記事で述べた「コミュニケーションの持つ力」の話と大いに関係があります。
そちらをまだお読みでない方は、ぜひ先に読んでいただきたいです。
それでは参ります。
情報集めってむずくね?
無職となり、日々現実逃避にいそしむ中、現実を変えたいという焦りだけは日々募る一方でした。
しかし、具体的に自分がどう行動すればいいか全くわかりませんでした。
焦る私はまず、行動の指針を決めるために、とにかく情報を集めようとしました。
そのとき、内向的な性格と人に相談できない性質(以前の記事参照)も相まって、自力で情報を集めようとしたのです。
しかし、社会の一般的なレールからは外れた立場にいることもあり、ネット上では自分に向けられたような内容の情報を得ることはできませんでした。
また、コンテンツ消費の沼につかり、集中力が低下してしまった私は、ろくに活字も読めなくなっており、専門的で詳細な情報を集められないような状態になっていました。
つまり、私は自力で情報を集められるような状況でも状態でもなかったのです。
今思うと、当時の私は自分が何の情報を探すべきなのかすらわからなくなっていました。
そんな中での自力での情報集めとは、膨大な情報の海から自分の欲しいものが偶然見つかることを期待して、あてもなく一人さまようという、あまりにも無謀で無意味な冒険を意味していました。
そこで私は、ついに人に頼ろうと決意しました。
人に頼る
私は、今自分がすべきことを聞くために、ある機関に相談に赴きました。
そこで私は、自分の客観的なプロフィールを並べつつ、例によって自分の内面についての話は一切しませんでした。
当然ですが、その結果として、自分のプロフィール上の条件とはマッチしますが、自分の内面とは合致しない内容の提案が返ってきました。
しかし、当時の私は頭を使うこと、そして自分と向き合うことから逃げていました。
そして、その提案に思考停止で頼ることにしたのです。
その提案に寄りかかり、人に頼りきることは、とんでもなく楽でした。
相手の提案に従い、とりあえず相手の意見に追従して自分のことを決定する。
今まで自分がやってきたことと同じです。
来るもの拒まず去る者追わず。八方美人スタイルです。
しかし、相手の提案に従って自分のことについて決めるうちに、うっすらとした不安が芽生えてきました。
自分の人生をこのまま決めてしまっていいのか。自分の内面を尊重しなくて本当にいいのか。
提案についての過程が進むにつれて、その不安はどんどん大きくなりました。
最終過程に近づくさなか、私は思い切ってこのことを他の人に相談することにしました。
人に頼っているだけの現状を変えたい、自分の人生は自分のものだと実感して生きていきたい。
そういった自分の内面もすべてさらけ出し、ある方に相談しました。(この方は今後もよく登場すると思うので、仮にΩさんとします。)
そしてΩさんに、「人を活用すること」を教わったのです。
「人を活用すること」
Ωさんからは、人を活用することは、思考停止で人に頼ることとは異なり、主体的な手段なのだと教わりました。
人に頼りきり自分のための決断を相手にゆだねることは後ろ向きで受動的な行動ですが、周囲の人を活用して自分にとってのヒントを引き出すことは主体的な行動です。
主体性の有無が活用することと頼ることのあいだの線引きとなるのです。
集めた情報を踏まえて、最終的には自分のことを自分で決定しなければいけません。
その決断のための情報を人を活用して収集するのは主体的な行動なのです。
また、頼られる側もうれしいということ、ルール通りになんでも生真面目に自力でやるのは、工夫しなくていい分楽ですが、人を活用してある意味で横着することも大事であるということも教わりました。
これらのお話は、最近私が獲得した、「自分のことをうまく話せば、自分にとって重要な情報が簡単に返ってくる」というコミュニケーションの力に関する気づきとも整合するものであり、自分の中にすっと入ってきました。
そこでようやく私は、「人を活用する」という手段の存在を認識することが出来たのです。
ここから、私が「人を活用すること」の意義をどうとらえたかについて書いていきます。
「人を活用すること」の意義
先ほども述べた通り、自分の指針を決めるための情報を、自分一人で仕入れようとするのには限界があります。
とくに、重要な決定に用いる情報を必要としていたり、一元的な情報だけでは意味をなさないとき、膨大な情報の海から本当に自分に必要な情報を集めようとするのは、ポケモンの個体値のシステムを知らないまま、がむしゃらに孵化させてポケモンの個体値厳選をしようとするようなものです(ポケモンオタク並みの例え)。
ネット上で情報を集めようとしても、本当に自分に合った情報を効率よく集めることはできず、どこかずれたような情報しか集まりません。
また、私の場合、集中力が低下しているので、本を読むこともままなりません。
このような状態をどう打開するか。自分にとって必要な情報を集めるにはどうしたらいいのか。
こういった場合、人の話を聞くのが一番効率がいいのです。
インプットするときのスピード調整を外部委託
コンテンツ大量消費などの原因により、注意力が散漫となった人が情報をインプットするときは、人から話してもらうなどの手段で、インプットするときのスピードを外部に作ってもらう方が、集中力が途切れにくいです。
自分でペースを作って行うインプット(本を読むなど)は、自分のペースでできるといえば聞こえはいいですが、私の場合どうしても途中で集中力が切れがちになってしまいます。
教科書を読むよりも授業を聞く方が頭に入ってきやすかった人も多いでしょう。
スピードラーニングとかいう(うさんくさい)商材が存在した理由もわかった気がします。
今までの記事の内容の応用
そして、人の話を聞くことのメリットは、相手にペースを作ってもらい情報をインプットできるということだけではありません。
自分のことを正直に話したうえで相談することで、相手から効率よく自分に必要な情報が手に入ります(コミュニケーションの持つ力)。
さらには「次回会う時までにここまで進歩しておかなければその人に悪い」という、「相手の目」による強制力も利用できます(環境の持つ力)。
以上の理由により、人から話を聞いて情報をインプットするという手段は、自分に必要な情報が何なのかわかっていない方こそ取るべき手段なのです。
ついでに現在集中力が減退している方向けの手段でもあります。
「人に話してもらうことで情報をインプットできる場に自分の身を置く」という行動を、主体的にやればよい。
これこそが主体的で効率のいい情報集めなのです。
「行動→思考」のサイクル
何かを進めたいと頭では思っていても、家にこもっているだけでは何も進みません。
一人で家で考えようとしても、知的活動はかかる労力が極めて大きいため、やり始めようとするととても大きな抵抗感を覚えます。
そして家では快楽に抗う手段がないので、結局コンテンツ消費に逃げて一日を終えてしまいます。
とりあえずまずは行動しないと、思考を始めるきっかけすら得ることができないのです。
また、一人でいるときは視野が極端に狭くなっているということを自覚しないといけません。
それを打開するにもまずは行動あるのみなのです。
とりあえず行動し、人と会って話を聞く。(環境づくり)
そうすることで、新しい情報が必ず手に入る。
そのあと、相手の目による強制力を用いて、もらった情報について自分の中で考える時間を取ることが出来る。
そして再びその人と会い、新たな情報を得る…
そうするうちに、行動する→その情報について考える→行動する…のサイクルが自動的に構築されていきます。
これが「行動→思考」サイクルなのです。
行動を決めるまでは一切頭を使わなくてくすむのに、一度行動して情報をインプットさせてもらえる場に身を置いてしまえば、やり始めるハードルが極めて高い知的活動を強制的にスタートできるという、画期的な仕組みだと私は思います。
活字を読む、勉強するといった、かかる労力の大きな他の知的活動も、やり始めるまでが一番腰が重くなりがちです。
家で何となく本を読もうとしても、周囲の目もないのでどうしても集中力が切れたとき娯楽に流れてしまいがちです。
その重い腰を上げるのを、行動することによって補助してあげるのです。
具体的には、
とりあえず外出してカフェに赴き、本を開き、とりあえず序文に目を通す。
このような本を開くまでの一連の行動を決めて実行することで、怠惰な心に引っ張られることなくその本を読まざるを得ない状況を作ることが出来るのです。
ちなみにですが、集中力が無くなりすぎて活字が読めなくなったそこのあなた、集中が切れて目が文字の上を滑るようになったときは、口の中で音読するのを強くお勧めします。
音読することで強制的にインプットのペースを作ってしまえば、あとは脳が文意の把握もそのペースで再開してくれるはずです。
人事を尽くしたうえでのエウレカ
以上のように、「行動→思考」サイクルを構築することで、私も自然と自分のことについて向き合うことが出来るようになっていきました。
現実を改善するための行動をがむしゃらにやっていくうち、現実と向き合うことのハードルが下がっていったのです。
また、行動して情報をインプットするうちに思考力も回復していっているような気がします。
そうして話は前々回に繋がります。
人と会った帰り道、バスの中で自分のことを考えていたとき、ふと自分の努力のトリガーを発見することが出来ました。
それは「行動→思考」サイクルが見についていたことによる一つの成果だと私は考えています。
これこそが偶然であって偶然じゃないという言葉の意味です。
天命を待てるだけの人事を尽くしていた、というわけです。
思えば高校時代の私は、自分を見つめなおすことが好きで、いつも何かしらの思い付きをメモしていました。
最近はあの頃の感覚を少しずつ取り戻しつつある気がしてうれしいです。
最後に余談となりますが、今まで自分の行動を事前に決めたことがなかったので、このたび人生で初めて意識的にスケジューリングに取り組んだことになります。
そのスケジューリングに関する気付きについても、いずれ話すことにします。
今回の内容は以上となります。
文字数を見て、今回の記事の長さに自分でもおののいています。
完全に前後編のペース配分をミスりました。
正直ここまで長くするつもりはありませんでしたが、丁寧に書こうとすると思ったより長くなってしまいました。
文章を書くって難しいですね。
次回からは一週間ほど前の過去の日記を書いていこうと思います。
まだ現在には至れません。
それほど最近は多くの内面の変化が起きています。
でも正直さっさと今日の日記に移って楽をしたいです…
無料デジタルコンテンツ消費と思考力に関する気づき
さて、今回はデジタルコンテンツ消費と思考力に関する私の気づきのようなものです。
「この男無職、無職のくせに偉そうだな」と思いつつ、生暖かい目で読んでくださるとうれしいです。
前回の記事のとおり、男無職は努力のためのトリガーの存在にバスの中でふと気づき、そこから一心不乱に思考を深めていきました。
そしてついには自分が努力できるための条件を発見することが出来たのです。
前回、これを見つけられたのは偶然であって偶然じゃないと書きました。
では何が偶然じゃないのか?
それを説明するには
①大学時代、コンテンツ消費により生じた思考力の低下と現実逃避、
そして
②最近実感している、まずは行動することで思考するための材料を生み出せる、という「行動→思考サイクル」
の二つについてお話しする必要があります。
今回は前半の①についてお話します。
②についてのお話は次回ですね。
それでは、どうぞ。
コンテンツ消費沼にはまるまで
私は高校まではガラケーで、インターネットに日常的に触れることはあまりありませんでした。
大学でスマホデビューし、さらには一人暮らしを始め、いつでも気軽にインターネットに触れられるようになったことをきっかけに、私はインターネットに一気に夢中になりました。
典型的なネット中毒になるパターンですね。
そして、インターネット上に大量に転がっている無料のコンテンツは、私の脳を破壊しつくしました。
動画やネット小説、ソシャゲなど、広告から収入を得ているコンテンツなら、消費者はタダで無限に消費することが出来ます。
また、従来は有料だった商品に関しても、時代に合わせて、サブスクなどの実質無料となるサービスが展開されはじめました。
この無料のデジタルコンテンツの数々はあらゆる面で「楽」を象徴するものでした。
得るために支払う対価もありませんし、こういったコンテンツからは大概頭を使わずとも受動的に快楽を摂取できることが多いです。
これマジ?得られる快楽に比べてかかる労力が貧弱すぎるだろ…
そんなこんなで、もともと怠惰な性質を持ち合わせていた私は、この「楽」の虜となってしまったのでした。
コンテンツ消費と現実逃避のマリアージュ
日々コンテンツを大量に消費する中で、自分と現実を見つめなおすための思考力が衰えていった気がします。
自分を見つめなおすといった知的活動は、やり始めるのにとんでもなく大きな労力を使うものです。
コンテンツの消費という労力を伴わない快楽に慣れてしまうと、疲労しそうな知的活動をやり始めることから無意識に逃げてしまうのでしょう。
しかし、自分と現実から逃げ続けていると、いつか必ず現実は悪化します。
現実を見つめることから逃げ、コンテンツ消費にいそしむうちに、さらに現実が悪化していくので現実を見つめなおすハードルはどんどん上がっていきます。
その分頭を使うことも避けるようになるので、思考力もどんどん低下していきます。
そして気づけば、コンテンツ消費だけで他に何もせず1日を終えてしまう日々となっていました。
もう終わりだよこの無職。
このように、コンテンツ消費と現実逃避のマリアージュにより、「現実悪化→思考力低下」という見事なネガティヴスパイラルが形成されていったのでした。
デジタルコンテンツ消費へのささやかな抵抗
現在、私はいまだに無料のデジタルコンテンツ消費の快楽から足を洗えていません。
「日本の無料コンテンツの依存性は高すぎる!」
ですが、最近私が無料のデジタルコンテンツ消費とうまく付き合う方法を一つ思いつき、実践していることがあります。
あ、ちなみに、現実逃避ではなく気分転換の手段として意識し、無料コンテンツを有効に利用できている方には何も言うことはありません。免許皆伝です。
しかし、コンテンツ消費のトラップにはまってしまった迷える子羊ちゃんたちには、先輩子羊から一つアドバイスを差し上げましょう。
頭も金も使わなくて楽なネット上の無料コンテンツはつい消費してしまいがちです。
ですが、ただ消費するばかりだと自分の中のリソースも消費する一方です。
時間もそうですが、実は感情も浪費しています。
気分転換のつもりでコンテンツを利用し始めたのに、感情がコンテンツ内の情報に振り回されて疲弊してしまい、結局気分転換にはならないことも。
そこで提案です。
コンテンツを消費する上で、何か生産的な要素を少し加えるのはどうでしょうか。
ネット上で動画や漫画を見るなら何かコメントを書く、とか。ソシャゲをするなら周回結果をツイッターで報告する、とかね。
どんなコメントをしようか考えながら動画や漫画を見るだけで、ぼんやり見ている時の頭の使い方とは明らかに違う、クリエイティブな頭の使い方をしていると実感しながら見ることができるでしょう。
消費するだけのルーチンにストッパーを設けることが出来るうえに、消費し続けて失った思考力の回復に役立てるかもしれない、という一石二鳥っぷりです。
実はこのブログもその一環で始めたところがあります。
何もせずコンテンツ消費だけで終わってしまった日は、その感想をブログに書くことで少しでもクリエイティブなものにして抗おう、というわけですね。
ともあれ、コンテンツをただ消費するだけでなく、自分に何かしらの形で身につくよう「利用」してやりましょう。
ちなみに私はソシャゲの周回はやめました。
以前私は、時間回復ゲージを消化できなければ地獄に落ちる、という小学生の縁石渡りゲームのような強迫観念に押されて日々の周回を続けていました。
でもある日、その日の時間回復ゲージを使わずにうっかり一日を終えてしまったところ、地獄に落ちた様子はなく、それどころか毎日周回するのが急にばからしくなり、それ以来周回はやめてしまいました。
デジタルコンテンツ消費へのささやかな抵抗の方法を書いたところで、今回はおしまいです。
次回は「行動→思考」サイクルについて、そして低下してしまった思考力をどう補って回復するかについてお話します。
無職の意識変革ほど意味のあるものはない。~環境づくり編~
今回は環境づくり編ということで。
まずは前書き兼今日の内容の要約です。
高校までは、どんな人間であっても、ある程度自動的に環境の中に振り分けられるような仕組みとなっています。例を挙げると、クラス分け、部活動などですね。
そこには「自分の所属先を自身で選ぶ」という意思が存在しないことが多いです。
そのため、環境に所属することそのものの意義や重要性には気づけないまま修了しがちです。
そしていきなり大学というサバンナに放り出されたとき、迷える子羊ちゃんたちはどうなるか?
環境に所属することの意義を理解し、自分のやりたいことのためにそれを利用しようとしている方は、積極的に環境づくりを行えるでしょう。
または単に人恋しいタイプの方でも、自分の入りたい環境を探すはずです。
このように、何らかの動機で環境に所属するという選択肢を選べた者は、環境に所属することの重要性に気づくことができ、ゆくゆくは自分の目的のために利用できるはずです。
では、特に人との交流を望まず、一人でも満たされており、特にやりたいことがないタイプの人間はどうなるでしょうか?
…答えは簡単、最終的に無職になります(実証済み)。
無職の意識変革ほど意味のあるものはない。~環境づくり編~
前回にも書きましたが、私はかなりの怠惰な人間です。
しかし思い返してみると、人生の要所要所でなぜか努力できた状況があったことに気づきました。
今までは気に留めたこともなかったのですが、自分を見つめなおすうえで改めて考えてみることにしました。
努力できた時とできなかった時で何か条件の差はあったのか?
…それは、周囲の環境の有無の差でした。
自分が努力できているときは決まって、その努力をすれば環境内で一定以上の地位を与えられる(と自分が思っている)ときだったのです。
「一定以上の地位を得る」とは、私にとっては「環境内で気楽に過ごせる権利を得る」ということです。
私は他人の行動に興味がありませんが、無神経な人間ではありません。
環境に所属している限り、「周囲の目」は環境内で気楽に過ごすうえで非常に気を遣うべき対象となります。
そして私は、その環境内で評価点とされているところを頑張ることで、その環境内での私への周囲の目は好意的なものとなり、その環境内で気楽に過ごせるようになる、という図式を無意識に思いつくに至ったのです。
例えば、部活でいい成績を取れば部内で悪く見られない、家庭内でいい子にすれば家庭内で悪く見られない、といった感じです。
ただし、トップを目指すのは責任も伴って面倒なのでやりません。あくまで「一定の地位を得る」までの努力です。
そして、それ以外の自分が無意識に不要としている努力は、怠惰がゆえに全くできないのです。
例えば私は、誰の目も届かず、誰からも評価されないような、一人で行う努力は絶対にできません。ピアノもプログラミングも自主練習スタイルでしたが、すべてすぐにやめてしまいました。
そうして私は、自分が環境内においてのみ「一定の地位を得るための努力」ができていたことに気づきました。
自分がそれをやりたいから努力するとか、自分の将来に備えて努力するとかは大の苦手です。
この結論は怠惰な自分の性質とも矛盾しません。
すなわち「周囲の目」こそが、自分にとって強制力であり、原動力でもあったのです。
高校までは、私は自分の意思で自分の所属先を選んだことがありませんでした。そのため、自動的に選ばれた環境内で、周囲の目が勝手に必要な努力をさせてくれていました。
大学時代となり、一人でも満たされてしまう私には、環境に所属する意義がどうしても理解できませんでした。そして、環境に所属しなかったため、努力をするための原動力が(自分の中には)なかったのです。
ここまで考えたとき、私は「自分のための環境を作る」ことの重要性と、「環境づくりのための力」というものの必要性にようやく、ようやく気付けました。
そして「環境づくりのための力」を繰り返し鍛えられる場として、大学生活が最適であったことにも気づきました。
これぞ覆水盆に返らず。あーあって感じです。
自分がこれに気づけたのは偶然でした。
バスに乗っていた時、ふと自分が努力できた時の条件が気になり、たまたま乗車中にその条件に気づくことが出来たのです。
しかし、これは偶然であって偶然じゃないと思っています。
自分のことを深く考えられるようになったのは行動しはじめてからです。
行動する→考える→行動する…のサイクルを、稚拙ながらも作っていたために今回思いつけたのです。
行動したからこそ偶然降ってきた。
天命を待てるだけの人事を、いつの間にか尽くしていたのです。
この辺の話は次回します。
ともかく、このように私は環境に所属することの重要性に気づけたわけです。
相変わらず私には自分の人生を生きているという実感がないです。どこか他人事で危機感もないまま今日も生きています。
ですが、まずは環境づくりをし、その環境内の周囲に合わせることで、「自分の人生を生きているフリ」ができることにも気が付きました。
また、「自分から環境づくりをする」という行動は、今現在自分にとって興味のない他人とわざわざかかわろうとする迂遠な行動であり、自分の臆病さを過度に刺激する行動でもあります。
正直かなり苦痛です。
ですが、この苦痛が将来の自分のための糧となることを思えば、自分にとっての「生きている」という実感に当たるとも考えています。
このように、私は「コミュニケーションの持つ力」(前回参照)、「環境の持つ力」の二つに気づき、それを杖に大きな一歩を踏み出したのです。
これまでの自己紹介3記事は、自分がなぜ無職になったかという内的要因のお話と、その自意識が今変革の途にあるというお話でした。
今までの私を一言でまとめると、まさに「内向的」って感じですね。それを自分に当てはめて精一杯言語化すると、これらの記事のような内容になると思います。
では今回はここまで。
次回もまだ日記に入る前に書きたいことがあるので、日記には入れません。
早く日記を始めたい…
無職の意識変革ほど意味のあるものはない。~コミュニケーション編~
前回に引き続き、自分の内面の自己紹介をしていきます。
今回からは無職になってからのお話です。
それではどうぞ。
まずは前書きから。
私は無職となってからも、あいかわらず怠惰な生活を送っていました。
このままの生活を続けることは絶対にできない。そんなことは頭ではわかっていましたが、どこか他人事で危機感を覚えていませんでした。
今は自分探しの時だと自分の中で言い訳し、かといって行動の仕方もわからず、何も前進しない日々を相変わらず送っていました。
無職の意識変革ほど意味のあるものはない。~コミュニケーション編~
(漫画やアニメでよくある、前置き後のタイトルコールの真似)
大学時代まで、私は他人の言葉から、自分にとって意味のあるものを得たことが一度もありませんでした。
これは人の話を聞いていなかったわけではありません。
私の受け取り方が問題だったのです。
当時の私には、自分の話には他人は絶対に興味を持たない、という確信めいた思い込みがありました。特に自分自身のプロフィールの話には。
この思い込みの原因は二つあります。一つは、幼いころ自分の話を聞いてもらえなかったという経験から。もう一つは実際に自分が他人の話にあまり興味がないから。
これら二つの原因により、私は自分自身の内面の話や相談を、他人に全くしなくなりました。当然家族にもです。
その影響で私は聞き上手となり、浅い対人関係はかなり上手くなったという効果もありましたが、その一方で自分の話をするのが極度に苦手になりました。
自分の深い内面の相談もせず、上っ面な内容を適当に相談をしても、当然相手から返ってくるのは、自分にとって意味のない(と思えてしまう)内容の答えばかり。
また「自分の人生他人事」症候群により、どんな他人の話であっても、自分の人生をよりよくするために役立ててやろうという心構えを持って聞くことができていませんでした。
こういった理由から、他人の話が自分にとって意味のあるものだと思えなかったのです。
そして、「他人の話は信用できない」ところから転じて、他人を頼ることができない体になっていました。
問題を自分の中に抱え込んでしまうというやつです。
いままでは、相談することなく自分の中で解決できてしまうような規模の問題しか起こっていませんでした。
しかし、いざ相談しないと自力では解決できないような問題が生じたとき、他人を頼るという手段が自分の中には存在せず、八方塞がりのように見えてしまっていたのです。
就職する気がない、就活のやり方もわからないという今の私の問題は、まさに自力では解決できない性質の問題でした。
ネットを見ても、自分に本当に必要なのかわからないような当たり前の情報しか書かれていません。
そうして自力ではどうしたらいいかわからなくなり、結果自室に引きこもるという悪循環に陥ったのでした。
コミュニケーションにおける問題を解決するための転機は、やはりコミュニケーションを通じて訪れることになりました。
無職ライフを送るうちに、母親と食事に行く機会がありました。
そこで酒の力も借りて、今までは濁しながら話していた私の就職への向き合い方などの、自分の内面についてのすべてを、勇気を出して正直に話したのです。
初めて他人に自分のことを打ち明けた瞬間でした。そしてその結果返ってきた母親の言葉は、初めて自分に向けられた言葉として実感することが出来ました。
自分のことを包み隠さず相手に話すことで返ってくる相手の言葉は、想像以上に自分の心の中にしみわたりました。
理屈で考えてもそれは当然の話でした。
自分にとって必要な情報を相手から得るには、自分のことをまず相手に正確に伝えなければいけません。そうしないと相手もこちらに的確な情報を返しようがないのです。
それに気づいてからは、様々な人にありのままの自分について話したうえで、相談に乗ってもらいました。
相手から返ってくる言葉は、内容の違いこそあれ、すべて私に向けられたものだと実感できました。
そのなかで、ようやく私は、他人は一人一人違う人生を生き、違う意見を持っているという、自分にとってのリソースの塊であることに気づきました。
自分のことをうまく話せば、自分にとって重要な情報が簡単に返ってくる。
こんなに楽な手段を利用しない手はありません。
とくに年上の方の話の価値は計り知れないです。
月並みな言葉ですが、亀の甲より年の劫。人生での大きな悩みは、その悩みが大きければ大きいほど、先を生きている大人たちも同じような悩みを経験している可能性が高いのです。
そしてそれを何らかの手段で乗り越えた先人たちの知恵は、いわばチートアイテムです。
相談という手段の利便性、そして人に自分のことを話すことの重要性。
それらのことに私はようやく気付けたのです。
読んでくださった皆さんの中には、「この程度の知識なら巷にありふれているし、理屈で考えたらわかるだろ」と思う方もいるかもしれません。
しかし私の頑固な性格上、実感を伴った知識でないと素直に受け取ることができないのです。
もし過去の私がこのブログを見たところで、この内容を素直に自分に生かそうとはしなかったでしょう。
それだけ私にとって、「自分のことを正確に話したうえで相手から返ってくる言葉はヤバイ」という事実は、今まで経験したことのない大きな新発見だったのです。
そうしてこの男無職は、今まで自分にとっては存在しないに等しかった、新たなデカい知識と手段を得ました。
そして、意識変革への大きな一歩を踏み出したのです。
ここから、「人生の目的編」にて学んだことも合わさり、さらなる変革が到来するのですが、今回はここまでで。
次回は「環境づくり編」です。
無職の自己紹介ほど意味のないものはない。~転落編~
こんにちは。
今回は、このブログを読むうえで必要な私の情報を書いていきます。このブログが主に内面を取り扱う内容になると思うので、内面の自己紹介をしていきます。
2回目にしてなかなかヘビーでロングな内容になってしまい、書くのにも時間がかかってしまいました。でも、自分のかつての体たらくを紹介しないまま、最近の自分の変化を書き進めるのは、このブログの価値が半減すると思い、時間がかかってでも私の歴史を先にご紹介しておきたかったのです。
では、さっそく自己紹介へと参ります。
私はアラサーである現実を受け止めきれない「男無職」(「女狩人」のイントネーション)です。性格としては生真面目な一方でかなり怠惰です。どれくらい怠惰かというと、自分の中の欲求がすべて怠惰に塗りつぶされてしまうくらい怠惰です。
無職特有の、謎の全能感と現実と向き合うことへの臆病さもしっかりと持ち合わせています。
そして自分や他人を問わず、人間自体にあまり興味がないタイプです。人に対してこちらからアプローチすることはなく、来るもの拒まず去る者追わずスタイルで今までやって来ました。
また、ヒトやモノに依存せずとも、また何もしなくてもなぜか常に自己肯定感は高いです。究極的にいうと何も持たず洞窟の中で一人ぼーっと考え事をしていても、それだけで満たされてしまいます。
これらの自分の内面がすべて(社会的にみると)悪い方向に作用し、気づけば立派な無職が一人誕生していました。
自分でも正直生まれる時代ミスったなと思います。もし私が鎌倉人であれば、大喜びで最速出家RTAをキメていたと思います。そして今ごろ歴史の教科書には、もう一人偉大な禅僧の名が刻まれていたはずです(禅問答をなめている無職の図)。
まあ実際には生存力がなさ過ぎて最速野垂れ死にRTAをかましていたでしょうね。
趣味も脳をあまり使わずに楽しめるアニメ、ゲーム、パズルなどの受動的なものが多いです。趣味の話はいずれ日記がてらやりたいですね。何も動けなかった日とかにね。
では、ここからは具体的に自分の内面の来歴を書いていきます。
私は高すぎる自己肯定感のおかげで、他人に対してとても穏やかで優しいです。典型的な自分に甘く、他人にはもっと甘くタイプです。
他人に本質的に興味がないゆえの自己承認欲求の無さと、この性格がかみ合い、今まで対人関係で困ったことが一度もありませんでした。
怠惰と臆病のハーモニーのせいで、こちらからは他人にアプローチできなかったのですが、今まで自分がいた環境内では奇跡的に向こうからきてくれる人たちに恵まれ、こんな自分でも無事にある程度の人間関係を構築できていました。
そう、「自分のいる環境」というものが自動的に構築される高校までは。
大学に入ると自分の力で身の回りの環境づくりをしなければいけません。今まで自分から環境づくりをしたことがなかった私には、これに気づかなかった。いや、気づけなかった。
自分からアプローチをしない者に、大学生活は容赦なく牙をむきました。自分から環境に入ってこないものに、大学は何も与えてくれないのです。
そして、持ち前の怠惰と臆病も発揮してしまったことで、大学生活はあまりにも空虚なものとなりました。部屋の中でぼーっとしているうちにいつのまにか月日は流れ去り、気づけば一人の無職が誕生していました。
他の大学生は自分のいる環境内の流れに合わせてとりあえず就職します。もしかすると、環境内での活動によって人生の目的を見つけられたすごい人もいたかもしれません。
しかし私は、大学生という身分だけ得ていた状態であり、どこかの環境に所属していたわけではありませんでした。
環境内で得られたであろう、何かしらの経験や周囲の流れの力などを得るチャンスを、気づかないうちに捨てていたのです。そして、ついには一切の身分も捨ててしまいました。
また、私は常に内面が満たされているがゆえに、どこか他人事のように人生を生きてしまう悪い癖がありました。そのため、今生きているのは自分の人生なんだ、という実感から生まれる危機感を全く持ち合わせていませんでした。
そして、欲求をかき消すほどの怠惰により、人生の目的意識を持つこともできませんでした。
ついでに、「こうじゃなきゃいやだ」という中途半端な完璧主義も持ち合わせています。
私は、危機感の無さ、目的意識の無さ、中途半端な完璧主義、これら三つの要素を併せ持つ♥
ヒソカはこの三つの能力が無職に最も適していると確信する!!
そんな感じで、今現在無職に至ります。
今回はこの辺で終えておきます。次回からは意識変革編ということで。
ここまで誰得冗長オナニー文章を読んでくれた本当に奇特な方、ありがとうございました。次回からもこんな感じです。
はじめまして、無職です。
こんにちは。
捨て垢と申します。無職です。
このブログでは、重い腰を上げてようやく頑張り始めた無職の様子を記録しています。
それと一緒に、日々得た気づきをメモ代わりに書いていこうと思っています。
でもまだ頑張れない日も多いです。そんな日もちゃんと書きます。要は日記です。
このブログはあとで自分が見返すための日記代わりの物なので、色変えなどの読みやすくする編集は全くなしで書いていこうと思っています。
でも、万一このブログを見つけた豪運の持ち主は、ぜひコメントをくれるとうれしいです。特典として無職の返信を差し上げます。
プライドの高いタイプの無職なので、かなり偉そうなことも書きますが、どうか生暖かい目で見守ってください。
初回はこの辺で終わります。次回は自分の過去について軽く書きます。