無職の意識変革ほど意味のあるものはない。~環境づくり編~
今回は環境づくり編ということで。
まずは前書き兼今日の内容の要約です。
高校までは、どんな人間であっても、ある程度自動的に環境の中に振り分けられるような仕組みとなっています。例を挙げると、クラス分け、部活動などですね。
そこには「自分の所属先を自身で選ぶ」という意思が存在しないことが多いです。
そのため、環境に所属することそのものの意義や重要性には気づけないまま修了しがちです。
そしていきなり大学というサバンナに放り出されたとき、迷える子羊ちゃんたちはどうなるか?
環境に所属することの意義を理解し、自分のやりたいことのためにそれを利用しようとしている方は、積極的に環境づくりを行えるでしょう。
または単に人恋しいタイプの方でも、自分の入りたい環境を探すはずです。
このように、何らかの動機で環境に所属するという選択肢を選べた者は、環境に所属することの重要性に気づくことができ、ゆくゆくは自分の目的のために利用できるはずです。
では、特に人との交流を望まず、一人でも満たされており、特にやりたいことがないタイプの人間はどうなるでしょうか?
…答えは簡単、最終的に無職になります(実証済み)。
無職の意識変革ほど意味のあるものはない。~環境づくり編~
前回にも書きましたが、私はかなりの怠惰な人間です。
しかし思い返してみると、人生の要所要所でなぜか努力できた状況があったことに気づきました。
今までは気に留めたこともなかったのですが、自分を見つめなおすうえで改めて考えてみることにしました。
努力できた時とできなかった時で何か条件の差はあったのか?
…それは、周囲の環境の有無の差でした。
自分が努力できているときは決まって、その努力をすれば環境内で一定以上の地位を与えられる(と自分が思っている)ときだったのです。
「一定以上の地位を得る」とは、私にとっては「環境内で気楽に過ごせる権利を得る」ということです。
私は他人の行動に興味がありませんが、無神経な人間ではありません。
環境に所属している限り、「周囲の目」は環境内で気楽に過ごすうえで非常に気を遣うべき対象となります。
そして私は、その環境内で評価点とされているところを頑張ることで、その環境内での私への周囲の目は好意的なものとなり、その環境内で気楽に過ごせるようになる、という図式を無意識に思いつくに至ったのです。
例えば、部活でいい成績を取れば部内で悪く見られない、家庭内でいい子にすれば家庭内で悪く見られない、といった感じです。
ただし、トップを目指すのは責任も伴って面倒なのでやりません。あくまで「一定の地位を得る」までの努力です。
そして、それ以外の自分が無意識に不要としている努力は、怠惰がゆえに全くできないのです。
例えば私は、誰の目も届かず、誰からも評価されないような、一人で行う努力は絶対にできません。ピアノもプログラミングも自主練習スタイルでしたが、すべてすぐにやめてしまいました。
そうして私は、自分が環境内においてのみ「一定の地位を得るための努力」ができていたことに気づきました。
自分がそれをやりたいから努力するとか、自分の将来に備えて努力するとかは大の苦手です。
この結論は怠惰な自分の性質とも矛盾しません。
すなわち「周囲の目」こそが、自分にとって強制力であり、原動力でもあったのです。
高校までは、私は自分の意思で自分の所属先を選んだことがありませんでした。そのため、自動的に選ばれた環境内で、周囲の目が勝手に必要な努力をさせてくれていました。
大学時代となり、一人でも満たされてしまう私には、環境に所属する意義がどうしても理解できませんでした。そして、環境に所属しなかったため、努力をするための原動力が(自分の中には)なかったのです。
ここまで考えたとき、私は「自分のための環境を作る」ことの重要性と、「環境づくりのための力」というものの必要性にようやく、ようやく気付けました。
そして「環境づくりのための力」を繰り返し鍛えられる場として、大学生活が最適であったことにも気づきました。
これぞ覆水盆に返らず。あーあって感じです。
自分がこれに気づけたのは偶然でした。
バスに乗っていた時、ふと自分が努力できた時の条件が気になり、たまたま乗車中にその条件に気づくことが出来たのです。
しかし、これは偶然であって偶然じゃないと思っています。
自分のことを深く考えられるようになったのは行動しはじめてからです。
行動する→考える→行動する…のサイクルを、稚拙ながらも作っていたために今回思いつけたのです。
行動したからこそ偶然降ってきた。
天命を待てるだけの人事を、いつの間にか尽くしていたのです。
この辺の話は次回します。
ともかく、このように私は環境に所属することの重要性に気づけたわけです。
相変わらず私には自分の人生を生きているという実感がないです。どこか他人事で危機感もないまま今日も生きています。
ですが、まずは環境づくりをし、その環境内の周囲に合わせることで、「自分の人生を生きているフリ」ができることにも気が付きました。
また、「自分から環境づくりをする」という行動は、今現在自分にとって興味のない他人とわざわざかかわろうとする迂遠な行動であり、自分の臆病さを過度に刺激する行動でもあります。
正直かなり苦痛です。
ですが、この苦痛が将来の自分のための糧となることを思えば、自分にとっての「生きている」という実感に当たるとも考えています。
このように、私は「コミュニケーションの持つ力」(前回参照)、「環境の持つ力」の二つに気づき、それを杖に大きな一歩を踏み出したのです。
これまでの自己紹介3記事は、自分がなぜ無職になったかという内的要因のお話と、その自意識が今変革の途にあるというお話でした。
今までの私を一言でまとめると、まさに「内向的」って感じですね。それを自分に当てはめて精一杯言語化すると、これらの記事のような内容になると思います。
では今回はここまで。
次回もまだ日記に入る前に書きたいことがあるので、日記には入れません。
早く日記を始めたい…